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チェーホフしろん

チェーホフ試論

神西 清

――チェーホフ序説の一部として――

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 20,618 字 · 41 页

青空文庫

おそらくこの哲学は、ダーウィン、スペンサーの進化論とともに、彼の心情の形成に多少とも決定的影響を及ぼした唯二つの思想であったと思われる。

もう一つチェーホフの上に或る影響をもった「哲学」があったとすれば、それはトルストイズムだ。チェーホフ自身の言葉によるとそれは思想としてよりはむしろ一種の催眠術として心に喰いこんで来たもので、およそ六七年のあいだ彼を捕えて離さなかったが、一八九四年の春には陶酔は完全に醒めていたことになる。実際それが道徳理念としてチェーホフを多少なりと支配した期間は、すこぶる短かかったらしい。九一年の『決闘』を脱稿した頃の手紙には早くも、金銭や肉食を虚偽とすることの行過ぎが指摘されているし、翌年の『六号室』になると、医師ラーギンの破滅という主題そのものにおいて、無抵抗の教義に対する手きびしい揶揄が、殆ど自嘲の調子すら帯びて響いている。『中二階のある家』(九五年)や、『わが生活』(九六年)では、すでに完全に冷却したトルストイ観が、挿話的に顔をのぞかせているにすぎない。トルストイズムへの反抗が最後的な爆発を見せている作品は、『すぐり』