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ヘヤーピンいっぽん
ヘヤーピン一本
豊島 与志雄
「人間喜劇」1948(昭和23)年10月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 8,246 字 · 17 页
「や。どうも、ありがとう。」
礼を言ったのは俺で、女中がヘヤーピンを黙って受取り、針金を二つに折り曲げたようなそれを、まっすぐ一本に延ばしてくれた。
「貰っておきますよ。」と俺は言った。
室の中からは何の返事もなく、奥の方に話し声があるきりだった。
俺は自分の室に戻り、パイプを通して、煙草をふかした。そしてヘヤーピンは、紙にくるんで、胴衣のポケットにしまった。
ただそれだけのことで、俺は別に気に留めはしなかったのだが……。
あとがいけない。
そもそも、俺が旅行の途次、山陽線のO駅に急行列車からわざわざ降りたのは、岩木周作を訪問するためだった。彼とはもう十年ほど逢わないが、時折交わす書信の調子は昔通りだ。俺は旅先から、ちょっと立ち寄るかも知れないとだけ知らせておいた。はっきりした予定がつかなかったのだ。
列車の都合で、O駅に降りたのが午前四時半。岩木の家までは可なり遠いことが分っていたし、細君がなんだか病身らしい様子だし、訪問に適当な時間になるまで駅内で過すつもりでいた。ところが、十一月末のこととて、午前四時半はまだ深夜で、薄着の身はぞくぞくと冷えこむ。