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ひとつのめばえ

一つの芽生

宮本 百合子

「新日本」1918(大正7)年1月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 14,627 字 · 29 页

青空文庫

そこはもう、理窟の領分ではない。

「どうにかして救われまいか、どうかしたはずみにフッと正気に戻るまいだろうか」と泣く母に対して私は云うべき一言をも持たない。

私が三つのとき、激しくひきつけたとき、札幌の四月末の雪の中を裸足(はだし)で医者まで連れて行ってくれた愛情、善いにつけ、悪いにつけ、無限に我々の上に濺(そそ)がれている愛情に対して、自分は自分の心に与える批判を、そのまま加えるほど、無感動であり得ない。

彼女は徹頭徹尾「母」である。

十二日の夜以来、再びあの恐ろしい発作は起らなかったけれども、十八日の昼頃、百二十六の脈搏と八度の体温とは、始めて表の上で不吉な兆(きざし)を現わし、最後の手段として腰髄刺穿(ようずいしせん)が施された。

かなり大きな試験管に、二本と五分の一ほども液体がとれたので、脳の圧迫が多少減じたため、その夜から十九日の夕刻まで体温と脈搏とは同点を指しながら、七度三分、百というところまで来た。

この時分になると、験温表はもう単に体温と脈搏とを記録するだけのものではなくなって来た。立派な一つの楽譜である。生命の終焉(しゅうえん)の音楽が、赤と碧(みどり)の色鉛筆によって、その表線の上に写されたものとほか感じられない。