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さんじゅっさい

三十歳

坂口 安吾

「文学界 第二巻第五号」1948(昭和23)年5月1日

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 16,211 字 · 32 页

青空文庫

あの人が訪ねてきたとき、私はちょうど、玄関の隣りの茶の間に一人で坐っていた。そして私が取次にでた。

あの人は青ざめて、私を睨んで立っていた。無言であった。睨みつづけることしか、できないようであった。私の方から、お上りなさい、と言葉をかけた。

テーブルをはさんで椅子にかけて、二人は睨みあっていた。

私は私のヒゲヅラが気にかゝっていたのを忘れない。その私にくらべれば、矢田さんは一つのことしか思いこんでいなかったようだ。やがて私をハッキリと、ひときわ睨みすくめて、言った。

「私はあなたのお顔を見たら、一と言だけ怒鳴って、扉をしめて、すぐ立去るつもりでした。私はあなたを愛しています、と、その一と言だけ」

私はそう驚きもしなかったようだ。はじめから、もう、たゞならぬものがあったから、我々が我々の最も重大なことにふれる日だということを、私はすでに知っていたに相違ない。

私が最も驚いたのは、一と言だけ怒鳴って、という、怒鳴って、という表現だった。あの人が通常使う言葉ではない。そこには気違いじみた殺気があった。私はあの人がすこし狂ったのじゃないかと思った。

あの人は目をとじていた。