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えせものがたり

似而非物語

山本 周五郎

「週刊朝日涼風読物号」朝日新聞出版、1952(昭和27)年6月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 31,817 字 · 64 页

青空文庫

けれども老人の方へは向かなかった。老人は待った。汗が出はじめたので湯からあがり、岩のふちへ腰をかけて、横眼づかいにそっと見ながら、待った。杢助はなにか云う筈であった。話しの糸ぐちはこっちでつけたのだから、こんどは杢助がその糸ぐちをほぐす番であった。が、杢助は黙っていた、やおら後頭部を岩のふちに凭せかけ、うっとりと空を見あげて、さも心地よさそうに溜息をついた。老人は咳をして、脇腹のあたりを掻いた。老人はしだいに待ちきれなくなった。それでもなお暫くは待っていたが、やがてがまんを切らして云った。

「わしはその、飯篠長威斎という者であるが」

「聞いただよ」

杢助は欠伸をした。

「弥市から聞いただし、いまの娘たちもそう云ってただ、弥市は詳しく話してただよ」

そして彼は、絞った手拭を頭にのせ、うっとりと眼をつむった。飯篠老人はなにか云いかけたが、云うのをやめて立ち、躯を拭いて、小屋の方へとたち去った。

飯篠老人は話し好きのようであった。杢助が黙っているので、面目上かなりまで自制していた。くる眼などという妙な癖のある土百姓の爺いに天下の長威斎から話しかけるという法はないのであった。