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やすきちのてちょうから

保吉の手帳から

芥川 竜之介

「改造」1923(大正12)年5月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 8,771 字 · 18 页

青空文庫

だからこの言葉を耳にした時、彼はこんなところに飼ってい勝ちな、大きい西洋犬を想像した。同時にそれが彼の後ろにうろついていそうな無気味さを感じた。

彼はそっと後ろを見た。が、そこには仕合せと犬らしいものは見えなかった。ただあの主計官が窓の外を見ながら、にやにや笑っているばかりだった。保吉は多分犬のいるのは窓の下だろうと推察した。しかし何だか変な気がした。すると主計官はもう一度、「わんと云え。おい、わんと云え」と云った。保吉は少し体をじ曲げ、向うの窓の下を覗いて見た。まず彼の目にはいったのは何とか正宗の広告を兼ねた、まだ火のともらない軒燈だった。それから巻いてある日除けだった。それから麦酒樽の天水桶の上に乾し忘れたままの爪革だった。それから、往来の水たまりだった。それから、――あとは何だったにせよ、どこにも犬の影は見なかった。その代りに十二三の乞食が一人、二階の窓を見上げながら、寒そうに立っている姿が見えた。

「わんと云え。わんと云わんか!」

主計官はまたこう呼びかけた。その言葉には何か乞食の心を支配する力があるらしかった。乞食はほとんど夢遊病者のように、目はやはり上を見たまま、一二歩窓の下へ歩み寄った。