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きずあとのはいけい

傷痕の背景

豊島 与志雄

「中央公論」1929(昭和4)年9月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 19,022 字 · 38 页

青空文庫

「どうだい。」

「うむ……。」

漠然と答える時には、もう眼の笑いも顔の表情も消えて、掴みどころのない顔付になっていた。

「どっかで、いいだろう、一寸……。」

その先の、酒かお茶かを察しながら、にやりと彼は笑った。

「駄目だ、今日は……。」

「急ぐのか。」

「いや。……ないんだ。」

「少しなら、持ってるよ。」

「少し……。」そして眼が揶揄的に光った。「だが、腹が空いてるわけでもなし、喉が渇いてるわけでもなし……。」

酒を飲んでは止度のない彼だった。また、飲むことにさほど興味を持たない彼、相手の議論を聞くことにも興味を持たない彼だった。

「いやに、はっきりしてるね。……この頃、何かしてるのか。」

「何にも……。」

その、仕事の上に就ての彼の口癖の返辞だけで、友は満足して、それ以上は徒労だと見た。

「じゃあ、また……。」

「失敬……。」

赤みの多い顔に、蒼白い笑いを浮べて、杉本は、また、雑踏の中の孤独な漫歩を続けるのだった。光と色と音との錯雑した卑俗な渦巻きの中に、何を見るでもなく、何を聞くでもなく、背はさほど高くない肉附のいい身体を運んで、そして心には、周囲と全く別な、朗かな而も何かしら退屈なものを湛えて……。