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はちじゅうはちや
八十八夜
「新潮」1939(昭和14)年8月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 13,623 字 · 28 页
生活のための仕事にだけ、愛情があるのだ。陋巷の、つつましく、なつかしい愛情があるのだ。そんな申しわけを呟きながら、笠井さんは、ずいぶん乱暴な、でたらめな作品を、眼をつぶって書き殴っては、発表した。生活への殉愛である、という。けれども、このごろ、いや、そうでないぞ。あなたは、結局、低劣になったのだぞ。ずるいのだぞ。そんな風の囁きが、ひそひそ耳に忍びこんで来て、笠井さんは、ぎゅっとまじめになってしまった。芸術の尊厳、自我への忠誠、そのような言葉の苛烈が、少しずつ、少しずつ思い出されて、これは一体、どうしたことか。一口で、言えるのではないか。笠井さんは、昨今、通俗にさえ行きづまっているのである。
汽車は、のろのろ歩いている。山の、のぼりにかかったのである。汽車から降りて、走ったほうが、早いようにも思われた。実に、のろい。そろそろ八が岳の全容が、列車の北側に、八つの峯をずらりとならべて、あらわれる。笠井さんは、瞳をかがやかしてそれを見上げる。やはり、よい山である。もはや日没ちかく、残光を浴びて山の峯々が幽かに明るく、線の起伏も、こだわらずゆったり流れて、人生的にやさしく、富士山の、人も無げなる秀抜と較べて、相まさること数倍である、と笠井さんは考えた。