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はちじゅうはちや

八十八夜

太宰 治

「新潮」1939(昭和14)年8月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 13,623 字 · 28 页

青空文庫

口下手ではあり、行動は極めて鈍重だし、そこは笠井さんも、あきらめていた。けれども、いま、おのれの芋虫に、うんじ果て、爆発して旅に出て、なかなか、めちゃな決意をしていた。何か光を。

下諏訪まで、切符を買った。家を出て、まっすぐに上諏訪へ行き、わきめも振らずあの宿へ駈け込み、そうして、いきせき切って、あのひと、いますか、あのひと、いますか、と騒ぎたてる、そんな形になるのが、いやなので、わざと上諏訪から一つさきの下諏訪まで、切符を買った。笠井さんは、下諏訪には、まだいちども行ったことがない。けれども、そこで降りてみて、いいようだったら、そこで一泊して、それから多少、迂余曲折して、上諏訪のあの宿へ行こう、という、きざな、あさはかな気取りである。含羞でもあった。

汽車に乗る。野も、畑も、緑の色が、うれきったバナナのような酸い匂いさえ感ぜられ、いちめんに春が爛熟していて、きたならしく、青みどろ、どろどろ溶けて氾濫していた。いったいに、この季節には、べとべと、噎せるほどの体臭がある。

汽車の中の笠井さんは、へんに悲しかった。われに救いあれ。みじんも冗談でなく、そんな大袈裟な言葉を仰向いてこっそり呟いた程である。