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しおばな
塩花
豊島 与志雄
「世界」1946(昭和21)年2月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 12,421 字 · 25 页
それから鹿革の手套は今では自慢だった。他の如何なる布地のものも革のものも、彼に言わすればそれはただ手の袋であって、手套という文字にふさわしいのは鹿革あるのみだった。其他にはあまり自慢になるものはなかったが、その代り、全くと言ってよいくらい目立たぬほどに、香水を身にふりかけた。ただ悲しいことに、それが如何なる花のエキスだか彼自ら知らなかった。
特におめかしをした所以は、その日、波多野邸でゆっくり彼女に逢える筈だったからである。逢ってそして、彼女に意中を打ち明けるつもりだったからである。
その日の、波多野邸に於ける集りは、なにか変な工合だった。
もともと、故人波多野氏を偲ぶ夕として、その知友たちが、世話役側の知慧で、日取りを、故人の命日から未亡人の誕生日と変えたので、一種の社交的な意味合を帯びて、誰でも参集出来た。故人が多彩な政治家だったために、各方面の有力者がはいっていて、談話にも生気があった。然しこの三四年、戦争やなにかのために、その人数は次第に少くなり、前年からは、食料や交通の関係上、午後のお茶の集りということになり、時間も自由だった。
その昔故人からたいへん世話になったという豪商の野崎氏が、物資の方の面倒をみ、昔から波多野邸の台所をきりまわしてるお花さんが、万事を取り計らった。