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しおばな

塩花

豊島 与志雄

「世界」1946(昭和21)年2月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 12,421 字 · 25 页

青空文庫

彼はバルコニーの木の手摺によりかかって、ゆっくり話していたが、その時、一歩ふみだそうとして、足が重いのを感じた。それを無理にふみだすと、ねっとりした重さが伝わった。足先を返して、草履の裏を見れば、芋の一片が踏み潰されているのだった。

彼は無邪気に笑い、草履の裏から芋をはぎとって、庭に投げすて、手先をハンカチで拭きながら、また無邪気に笑った。

「罠にかかりましたよ。」

然し、彼女への反応はなかった。彼女は微笑すらしなかった。その顔は緊張して、殆んど透明と言えるほどに冴え返ったが、こんどは血の気が引いてしまったかのようであって、輝きを含んだ両の眼がじっと彼を見戌っていた。だがそれもまた瞬間で、彼女は額をそむけて、芋の方にかかった。

彼は狼狽した気持ちになり、眉をしかめて、手摺を指先で打ちたたき、それから煙草を吸った。彼女の仕事は終った。

「失礼致しました。」

はっきりした挨拶、だが、にっこり笑った。そして彼女はそこを去った。

その最後の笑顔に、山口はすがりついた。

山口が彼女と相対したのは、その時が最も長かった。其後は、波多野邸で数回顔を合せたきりで、ゆっくり話す隙はなかった。