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なつ

夏

寺田 寅彦

「大阪朝日新聞」1929(昭和4)年7月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 6,046 字 · 13 页

青空文庫

そこから吉浜まで海岸の雨の山道を、験潮器を背負って、苫をかぶってあるいていると、ホトトギスが啼いた。根白というところで煙草を買おうと思ったが、巻莨はおろか刻煙草もない。宿屋の親爺ののみしろを一服めぐんでもらったので、喜んで吸ってみると、それは実に不思議な強烈な原始的の味をもった煙草であった。煙草というものに対するわれわれの概念の拡張の可能性の極限を暗示するものであった。

吉浜へ行っても煙草がなく、菓子がない。黒砂糖でもないかと聞いて歩いたが徒労であった。煙草と菓子の中毒にかかっている文明病患者は、こういうところへ来ると、頭がぼんやりしてしまう。そうして朝から晩まで鱒一点張りの御馳走をうけた。実にテンポのゆるやかな国であった。

日露戦争当時であって、つい数日前露艦がこの辺の沖に見えたという噂もあった。われわれが験潮器を浜に据えて、鉛管を海中へ引っぱっていたので、何か水雷でもしかけているという噂をされたそうである。

この浜の便所はおそらく世界一の広々とした明るい便所で、二人並んで、ゆるゆる談じながら用を達すことが出来るしかけである。そして子供の時分から話にだけは聞いていたチュウギなるものが、目前の事実としてちゃんと鼻のさきの小函に入れてあった。