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ゆうなぎとゆうかぜ
夕凪と夕風
寺田 寅彦
「週刊朝日」1934(昭和9)年8月1日
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 2,227 字 · 5 页
午後の海軟風(土佐ではマゼという)が衰えてやがて無風状態になると、気温は実際下がり始めていても人の感じる暑さは次第に増して来る。空気がゼラチンか何かのように凝固したという気がする。その凝固した空気の中から絞り出されるように油蝉の声が降りそそぐ。そのくせ世間が一体に妙にしんとして静かに眠っているようにも思われる。じっとしていると気がちがいそうな鬱陶しさである。この圧迫するような感じを救うためには猿股一つになって井戸水を汲み上げて庭樹などにいっぱいに打水をするといい。葉末から滴り落ちる露がこの死んだような自然に一脈生動の気を通わせるのである。ひきがえるが這出して来るのもこの大きな単調を破るに十分である。夜の十二時にもならなければなかなか陸風がそよぎはじめない。室内の燈火が庭樹の打水の余瀝に映っているのが少しも動かない。そういう晩には空の星の光までじっとして瞬きをしないような気がする。そうして庭の樹立の上に聳えた旧城の一角に測候所の赤い信号燈が見えると、それで故郷の夏の夕凪の詩が完成するのである。
そういう晩によく遠い沖の海鳴りを聞いた。海抜二百メートルくらいの山脈をへだてて三里もさきの海浜を轟かす土用波の音が山を越えて響いてくるのである。