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よるのくつ

夜の靴

横光 利一

――木人夜穿靴去、石女暁冠帽帰(指月禅師)

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 107,056 字 · 213 页

青空文庫

私はまだ長い疎開生活中それほど執心したものは一つもなく、僅に村里の人人の心だけ持ち去りたい自分だと思った。しかし、これで私は、今まで会って来た多くの人人の心をどれほど身に持ち廻っているかしれないと思った。自分という一個の人間は、あるいは、そういうものかもしれないのである。自分というものは一つもなく、人の心ばかりを持ち溜めて歩いている一個の袋かもしれない。私の死ぬときは、そういう意味では人人の心も死ぬときだと、そんなことを思ったりしてバスに揺られていた。このバスはひどく揺れた。一番奥まった座席にいるので押し詰った人の塊りで外が見えず、身をひねってちらりと見ると、外では、高い断崖の真下で、浪の打ちよせている白い皺に日が耀いていた。屈曲し、弾みがあり、転転としていく自分らのバスは、相当に危険な崖の上を風に吹かれて蹌踉めいているらしい。

水沢で降りたのが二時である。小川の流れている泥路に立って、そこで四人が握り弁当を食べることにした。指の股につく飯粒を舐めて、一家をひき連れた漂泊の一生をつづけているような、行く手の長い泥路を思うと、ここで荷を軽くして置く必要があったからだった。