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よるのくつ

夜の靴

横光 利一

――木人夜穿靴去、石女暁冠帽帰(指月禅師)

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 107,056 字 · 213 页

青空文庫

この村は平野をへだてた東羽黒と対立し、伽藍堂塔三十五堂立ち並んだ西羽黒のむかしの跡だが、当時の殷盛をうかべた地表のさまは、背後の山の姿や、山裾の流れの落ち消えた田の中に、点点と島のように泛き残っている丘陵の高まりで窺われる。浮雲のただよう下、崩れた土から喰み出ている石塊のおもむき蒼樸たる古情、小川の縁の石垣ふかく、光陰のしめり刻んだなめらかさ、今も掘り出される矢の根石など、東羽黒に追い詰められて滅亡した僧兵らの辷り下り、走り上った山路も、峠を一つ登れば下は海だ。朴の葉や、柏の葉、杉、栗、楢、の雑木林にとり包まれた、下へ下へと平野の中へ低まっていく山懐の村である。義経が京の白河から平泉へ落ちて行く途中も、多分ここを通って、一夜をここの山堂の中で眠ったことだろう。峠の中に今も弁慶の泉というのもある。

この村の人で、私の職業を誰一人知っているもののないのが気楽である。私にここの室を世話してくれた人も知らなければ、またこの家のものも私については何も知らない。通りすがりに、ただふらりと来た私は偶然一室を借りられたそれだけの縁で、とにかくここをしばらく仮の棲家とすることが出来たのは幸いである。