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だいぼさつとうげ

大菩薩峠

中里 介山

37 恐山の巻

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 254,021 字 · 495 页

青空文庫

鬼でも出たか、蛇でも出たか。いや、そんなはずはない。本来、琵琶湖の湖辺は決して猛獣地帯ではないことは、前にも述べた通りで、いかに古城址の廃墟のあとを訪ねたからとて、ジャングルの王者が現われて来るような憂いはないのです。

米友が「あっ!」と舌を捲いたのは、存外平凡な光景なので、この堀の湾入の行きどまるところに、ふり、形の面白い一幹の松があって、その下に人間が一人いたからです。その人間とても、松の木にブラ下がって、足を宙にしていたわけでもなんでもない。その幹のところにうずくまって、悠然として釣を垂れている人が一人あっただけです。

木の下に人が一人うずくまって、水の中へ釣を垂れているという光景は、どう見直したとて、しかく仰山に「あっ!」と言って舌を捲いて、驚かねばならぬほどの現象ではないのです。むしろ、極めて平和な別天地の、ゆうゆうたる光景でなければならぬ。それを、米友ほどの豪傑が、水馴棹を取落さぬばかりに驚いて、「あっ!」と舌を捲かしめた先方の人影というものは、よく見る尾羽打枯した浪人姿で、編笠をかぶって謡をうたったり、売卜をしたりして露命を行人の合力によって繋ぎつつ、また来ん春を待つといった在来の型の浪人姿が、一心に釣を垂れているだけの平凡な光景でありました。