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だいぼさつとうげ
大菩薩峠
中里 介山
38 農奴の巻
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 30,484 字 · 60 页
「待ちろ――逃げちゃあいけねえぞ」
「何を……」
むんずと飛びついて来た千草の股引は、これは只の股引ではありませんでした。充分に腕に覚えのある捕手の一人でした。腕に覚えのあるべきのみならず、前のいきさつを知っている者は、たしかに面にも見覚えがあるべきはずです。これぞ長浜の夜中の捕物に、現にここに見る宇治山田の米友ほどのものを取って押えて、ここへみごと晒しにかけるまでの手柄を現わした、あの夜の名捕方――轟の源松という勘定奉行差廻しの手利きでありました。
それに飛びかかられた旅の男――もう四の五もない、ぱっちにかかった雀のように、おっかぶされたかと思うと、
「何を、田舎岡っ引め、しゃらくせえ真似をしやがんな」
武者ぶりつかれてかえって、度胸が据ったらしい旅の男――窮鼠猫を噛むというよりも、最初に猫をかぶっていた狐が、ここで本性を現わしたというような逆姿勢となって、
「まだこんなところで手前たちに年貢を納めるにゃ早えやい」
そこで、またしても大格闘がはじまったかと思う間もなく、旅の男の風合羽がスルリと解けて千草股引の頭の上からかぶさり、その間に股の間をスリ抜けて、一散に逃げました。