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てんま

天馬

金 史良

「文芸春秋」1940(昭和15)年6月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 35,407 字 · 70 页

青空文庫

どことも知らず迷い込んだ塩売り爺さんは、やけに、

「塩やーい、塩やい!」

と叫び廻っていた。玄竜はようやく三叉に岐れたところまで出て来ると、ゆっくり「みどり」を一本取り出して咥え、辺りを見廻しつつ不機嫌そうに何かをぶつくさ呟いた。どうも気に食わぬ女を抱いたものだと思ったら、帰り途にさえこんなに手古摺るわいと彼は愚痴るのだった。だが、それよりも先程から彼の心の一隅にはどうしても払いのけることの出来ない黒い雲のわだかまりがあるのだ。時々それは強く胸をしめつけるようでさえある。実に彼はあるのっぴきならぬ事情から、この二日の中に頭髪を剃りお寺へ修行に参らねばならぬ身の上だった。それ故娑婆の悦びもこれでおしまいかと思えば興奮のあまり、昨夜敵娼の頬をメロンだメロンだと叫んでかぶりついたのであるが、女はこういう天外な芸術家を理解しようとはせずにびっくりして飛び出したのである。彼はそんな不快なことを思い出して畜生、忌々しいと再び呟きつつ、兎に角一応小高い所まで出て見ねばなるまいと考えをきめ、いくらか坂になっている小路をさして又とぼとぼ歩き出した。やはり突き当ったり、くねりくねり曲ったりしつつ、ようやく坂の上、陽春館というそれも青ペンキ塗りの大門の前まで辿り着いた。