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おくのうみ
奥の海
久生 十蘭
「別冊週刊朝日」1956(昭和31)年4月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 13,005 字 · 26 页
あの夜の笑顔が忘れられない。十八年の貧苦で痩せ細ったひとに、充ち足るほど食いぬけさせ、輝きだすような笑顔を見ると、それで辛さもひだるさも忘れてしまう。
それだけを生きる張合にしていたが、口の端に通うものが乏しくなるにつれ、知嘉姫は日増しにものを言わなくなった。このごろは小波ほどの微笑も見せなくなった、と思っているうちに、まだ露のある朝け、起きだして身じまいをすると、いつものように胸を反らして出て行ったが、夜になっても帰って来ない。
たぶん腹をすかして帰ってくるのだろうと、竈突に土鍋をかけて粥を炊き、なけなしの鳥目をはたいて、何年か前の塩ぶりか、石のように固くなったのを買ってきて、焼いて向付けにし、すぐでもとりこめるように、飯櫃と箱膳を出しそろえて待っていたが、なかなか戻ってこない。
金十郎は子供の帰りを案じる子煩悩の父親のように長屋の門で夕月の出るまで待ち暮らしてから、神泉苑の辻へ行っておろおろと東西をながめ、また長屋まで駆け戻って、もしや帰っているかと出窓からのぞき、痩せるほどに気を揉んでいたが、四ツの鐘の音を聞くと、さすがにがっくりと疲れた。