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こをうばう

子を奪う

豊島 与志雄

「中央公論」1921(大正10)年5月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 39,292 字 · 80 页

青空文庫

……彼はまた障子を開いた。そして、その敷居際に腰を下した。

「寒くはないですか。」と彼は云った。

「いいえ。」と敏子は答えた。

彼は向うの言葉を待った。然し敏子は俯向いたまま何とも云い出さなかった。彼は心の中で言葉を探した。適当な言葉が見つからなかった。然し躊躇してるのはなお苦しかった。口から出まかせに云った。

「いろいろ苦労をかけて済みません。」

「いいえ。」と彼女は云った。落付いた調子だった。「私はこの子のために、ほんとに仕合せなことと思っております。」

そんなことを云ってるのではない、と彼は心の中で叫んだ。然しどう云い現わしていいか分らなかった。

「考えてみると、僕は何だか恐ろしい気がするけれど……。」

「私は安心しております。お祖母様もお……母様も、ほんとに御親切ですから。」

「僕もどんなに苦しんだか知れない。然し僕の意志ではどうにもならなかったので……。」

「いいえ、こうして頂けば、私は本望でございますもの。」

「随分苦しんだでしょう。」

「いえ、まだ何にも分かりませんから。」

そう云って彼女は子供の頭に頬を押しあてた。

彼は口を噤んだ。彼が彼女のことを云っているのに、彼女は故意にかまたは知らずにか、子供のことばかりを云っていた。