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こをうばう

子を奪う

豊島 与志雄

「中央公論」1921(大正10)年5月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 39,292 字 · 80 页

青空文庫

なぜならそれは、美意識を通じて働くのではなくて、直接情慾に働きかけるから。然しそんなのは、取るに足らないことだ、心に関係のないことだ。……そこまで考えた時彼は、なお一層不貞な自分の姿を見出した。その考えは、兼子をも敏子をも共に辱めるもののように思えた。彼は何処まで自分の心が動いてゆくか恐ろしくなった。急いで家の中にはいった。

茶の間へ行くと、兼子がぼんやり坐っていた。何かしら口を利かなければ、自分で自分が苦しかった。

「雨が降ってきたようだね。」と彼は云った。

「そう。」と彼女は気の無い返辞をした。

「この雨ではもう花も駄目になるだろう。」

彼女は黙っていた。

「明日書斎の花を取換えてくれない? もう凋んでしまったから。」

「水上げが悪かったのですかしら。」

「そうかも知れない。……ほんとに嫌だな。雨か曇りかが多くて。」

「なぜ? お出かけなさるの、明日は。」

「いや出かけはしない……。お前達こそ、これから依子を方々へ引張り廻わすつもりじゃないのか。」

「そのつもりですわ。」

「もう依子は寝たのかい?」

「ええ、先刻。」

「一晩余計母親と寝られるので……。」

彼は云いかけてふと言葉を途切らした。