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しきじひつのねぎしちず
子規自筆の根岸地図
寺田 寅彦
「東炎 第三巻第八号」1934(昭和9)年8月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 2,254 字 · 5 页
陸橋を渡るとそこらの家の表札は日暮里となっている。昨日の雨でぐじゃぐじゃになった新開街路を歩いているとラジオドラマの放送の声がついて来る。上根岸百何番とあるからこの辺かと思うが何一つ昔の見覚えのあるものはない。昔の根岸はもうとうに亡くなってしまっている。鶯横町も消えているのではないかという気がして心細くなって来た。とある横町を這入って行くと左側にシャボテンを売る店があった。もう少し行くと路地の角の塀に掛けた居住者姓名札の中に「寒川陽光」とあるのが突然眼についた。そのすぐ向う側に寒川氏の家があって、その隣が子規庵である。表札を見ると間違いはないのであるが、どういうものか三十年前の記憶とだいぶちがうような気がする。門も板塀も昔の方が今のより古くさびていたように思われ、それから門から玄関までの距離が昔はもっと遠かったような気がする。もちろん思い違いかもしれない。ただ向う側の割竹を並べた垣の上に鬱蒼と茂って路地の上に蔽いかぶさっている椎の木らしいものだけが昔のままのように見える。人間よりも家屋よりもこうした樹の方が年を取らぬものと思われる。とにかくこの樹の茂りを見てはじめて三十年前の鶯横町を取返したような気がした。