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ふじ

富士

岡本 かの子

「文芸」1940(昭和15)年11月号~1941(昭和16)年4月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 40,579 字 · 82 页

青空文庫

風は々たる海面から吹き上げて来て空の中で鳴った。風の仕業か雲の垂幕は無数の渦を絡み合せながら全体として、しずかにしずかに、東の方へ吹き移されて行く。いくら吹き移されても雲の垂幕は西のあとから手繰られて出た。翁は目あての山の一つが見える筈の東国へ足を踏み入れてから毎日この雲の垂幕に向って歩んでいる。山の祖神の翁はその冥通の力をもって、これはこの山は物惜しみする中年女の山なのではあるまいかと察した。また恥かしがりやの生娘の山なのではあるまいかとも思った。西国の山にかけては冥通自在な翁も、東国へ足を踏み入れ東国の山に対するとき、つい不勝手な気がしてその冥通の働きをためらわした。そこに判断を二亙らす障りがあった。

季節は初冬に入っていた。旅寝の衣には露霜が置いていた。翁は湿り気をふるって起上った。僅かに残っている白い鬢髪からも、長く垂れた白い眉尖からも雫が落ちた。雨風に曝され見すぼらしくなった旅の翁をどこでも泊めようとしなかったのだ。翁は煩わしく雫を払いながら朝餉を少し食べた。持ち亙って来た行糧ももはやほとんど無くなっていた。翁は朝餉を食べ終ると冷えた身体を撫でさすりいささかの暖味に心を引立たして貰って、きょうの旅路の踏出しにかかった。