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かわなみ

川波

久生 十蘭

「別冊文藝春秋 第五十一号」1956(昭和31)年4月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 9,022 字 · 18 页

青空文庫

それから三日目の二十八日の午後、カザン駅の構内食堂へ昼食をしに行くと、今朝、独ソ不戦条約が締結されたという旅行者に宛てた英仏両文の公示の貼紙が出ていた。

「えらいことになった。独逸のポーランド進駐は絶対だ。一日もはやく国境を越えないと、あぶないぞ」

豊川は、にわかにあわてだした。

国境まであと四日半、無事に独領へ辷りこめるかどうか、あやしくなってきた。モスクワの十時間の停車には身を削がれるような思いをし、夕方の五時になって、ようやく汽車が動きだすと、国境まで一瞬のうちに突っ走れと焦立ったが、九月一日の午前四時頃、茫々たる薄明の野原の真中で急停車した。野路の末に、ものすごく大きな火が見えた。大地から抜けていくような砲声がきこえ、それで万事休すとなった。

国境へあと一時間というところで、ナチスの侵入にかちあったというのは、運が悪すぎた。列車主任にワルソオへひきかえす交渉をしているうちに、乗客は部落の馬車を傭ってボーゼンの方面へ逃げてしまった。和田と豊川はしばらく後を追ったが、思ったより情況が悪いので、おとなしくワルソオまでひきかえし、リスアニア、和蘭、白耳義を経由して、ジャモンからフランスへ入り、がたがたのフォードを買って、二十日目に、やっとのことで巴里に辷りこんだ。