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まぼろしのかなた

幻の彼方

豊島 与志雄

「中央公論」1922(大正11)年4月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 41,763 字 · 84 页

青空文庫

暫くして順一がむずかると、機械的に立ち上って、室の中をよいよいして歩いた。喜びも悲しみもないただ澄み切った順一の眼が、この上もなく淋しく思われてきた。順一が眠るとそれを布団に寝かして、自分は畳の上に寝そべった。背筋や足先がぞくぞく寒かったが、身を動かすのも嫌だった。

竜子が約束通りに早く帰って来ても、また、秋子の気分が大変いいと看護婦に云われても、彼は不機嫌に黙り込んでいた。

然し、実際秋子は気分がはっきりしてきた。腹痛も非常に遠のき、痙攣も襲って来なかった。その晩遅くまで眼を開いていた。わりにしっかりした言葉で、看護婦と話をした。

順造は横の方に寝転んで、雑誌を披いて二三頁飛び読みをしたり、ぼんやり天井板の木目を見守ったりした。凡てが不思議な気がした。妊娠や分娩や病気や乳母や看護婦や、現在眼の前の病室の事物までが、夢の中のことのように感ぜられた。そしてそれが、永久に続く事柄のように思われた。静かな静かな夜だった。しいんとした中に虫の声がしていた。遠い昔の思い出が籠っていそうな夜だった。秋子の大きな腹ももう気にかからなかった。

ただあるがままでよかった。