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まぼろしのかなた

幻の彼方

豊島 与志雄

「中央公論」1922(大正11)年4月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 41,763 字 · 84 页

青空文庫

「奥様がお呼びでございますよ。」

順造は秋子の側にやって来た。

「なに?」

「え?」と秋子の方から尋ねかけた。

それから一二分間して、秋子は独語のような調子で云い出した。

「いやね、乳母に任せとくのは。」

順一のことに違いなかった。

「だってお前が病気の間は仕方ないじゃないか。」と順造は云った。「病気がよくなりさえすれば、またどうにでもなるよ。」

「どうにでもなるって……生れてしまわなければ駄目じゃないの?」

どうも調子が変だった。順造は惘然と彼女の顔を見つめた。

「あなた、私の手を握ってて頂戴。それはひどくくるのよ。」

順造が手を差出すと、彼女は異常な力でそれを握りしめた。かと思うと、不意にその手を離して、室の隅を指し示した。

「どうしたんでしょう。あんな大きな塵があるわ。だんだん大きくなるようよ。」

その方を注意して見ると、一寸した糸屑が落ちていた。

それでも、彼女の様子は落着いていた。気分はと尋ねられると、大変いいと答えた。

「ねえ、私がよくなるまでいて頂戴。」と看護婦に云った。「みんな他処へ行ってしまって、私一人になって、それは心細かったわ。それとも、夢だったかしら?」