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まぼろしのかなた

幻の彼方

豊島 与志雄

「中央公論」1922(大正11)年4月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 41,763 字 · 84 页

青空文庫

そういうことが何度もくり返された。彼はしまいに馬鹿々々しくなった。表を少し歩き廻って戻って来た。

「私、あなたをどんなに待ったか知れないわ。」と彼女は云いながら、彼をすぐ側に引寄せて、その耳に囁いた「お腹が急に軽くなったような気がするのよ、そっと坐ってみましょうか、内密でね。」

そして彼女は起き上ろうとした。看護婦がそれを慌てて止めた。

「だってもうお腹は小さくなってるのに……。」

然し実際は、小さいどころではなかった。その日の診察の時には、今にも張り裂けそうに脹れ上って、皮膚がぴかぴか光っていた。鳩尾の所でくっきりと一線を劃して、それから上は肋骨が一枚々々浮出して見えていた。順造は見かねて眼を外らした。見舞に来ていた叔母がその場に居合せないのを、幸と思ったほどだった。

秋子はしきりに、身体の汚れを気にしだした。夜着の襟から手を出して、手先が穢いと云った。もう少し病気がよくなったら洗ってあげる、と看護婦に云われると、今度は両手を持ち寄って、爪の中の垢をほじくり初めた。何度も掌を返して、その裏表を長くあらためていた。額に垂れかかるほつれ毛を、非常に気にしてかき上げた。