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まぼろしのかなた

幻の彼方

豊島 与志雄

「中央公論」1922(大正11)年4月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 41,763 字 · 84 页

青空文庫

と竜子は云った。

彼女は順一を抱き取って乳をやった。円く張った真白な乳房が、順一の頬と同じくすべすべした皮膚を、惜しげもなく曝していた。

順造は喫驚して眼を見張った。すぐ自分の側に余りにまざまざと、彼女の存在が感ぜられた。秋子の死から葬式から其後の混雑の間に、順一を介して、彼女はいつのまにか彼と相接して立っていた。彼は適当の視距離を保って彼女を見ることが出来なかった。

大きな澄んだ眼だった。瞳の輝きが目玉の表面に浮いて見え、同情と揶揄との間を一瞬に飛び越し得る眼付だった。鼻が太くがっしりして、薄い唇が少しく反り返っていた。柔かみのある下脹れの頬に、いつも薄く白粉を塗って、大きな束髪に結っていた。若々しさのうちに何処か緊りのない爛熟した肉付で、甘酸っぱい匂い――匂いとも云えないほどの風味が、その全身に漂っていた。凡ての点で清楚だと感じのする秋子とは異って、鈍重なずっしりとした容積だった。

或る大学生と恋してその子を孕みまでしたが、子供が生れると間もなく男に捨てられ、一人で子供を育てていたけれど、どうも先の見込がないので、厄介になってる家――遠い縁故――の主婦さんに勧められて、子供を他家にくれてやり、自分は乳母奉公の決心をしたのだ、というようなことを彼女は語った。