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まぼろしのかなた

幻の彼方

豊島 与志雄

「中央公論」1922(大正11)年4月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 41,763 字 · 84 页

青空文庫

室全体が、心の中全体が、冷やりとしてしいんとなった。

秋子よ、安らかに眠ってくれ! 順一も、竜子の腹の子も、皆安らかに眠ってくれ!

戸の隙間から白々とした夜明の微光がさし初めた頃、順造はそっと雨戸をくって外に出た。露を含んだ爽かな夜明けだった。庭の木々に小さな芽が出かかっていた。片隅の枸杞の枝に、小さな実が所々残っていて、赤く艶々と光っていた。あの朝は、順一が生れた時は、薄紫の花が咲いていたっけ。

そうだ、皆安らかに眠ってくれ!

まだ星が一つ二つ輝き残ってるらしい仄かな夜明けの光の中に、順造は怪しい心乱れがして、室の中に戻っていった。そして頭から布団を被って、眠れ眠れ! と幻にでも呼びかけるように、胸の底でしつっこく繰返しながら、いつしかうとうとと眠っていって、それからは昏々と眠り続けた。竜子が順一を抱いて彼の室を覗きに来て、次には彼を揺り起そうとしたが、彼は夢中にその手を払いのけて、精根つきた者のように、いつまでも眠り続けた。

午後になって順造は眼を覚した。起き上るとすぐ順一の所へ駆けていった。縁側に坐ってぼんやり考え耽ってる竜子の膝から、いきなり順一を抱き取って、室の中をよいよいして歩いた。