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かれはむかしのかれならず

彼は昔の彼ならず

太宰 治

「世紀」1934(昭和9)年10月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 28,274 字 · 57 页

青空文庫

「そう。」

「はて。僕と風呂で一緒になりましてね。遊びに来いとおっしゃったものですから。」

「あてになりませんのでございますよ。」恥かしそうに笑って、夕刊のペエジを繰った。

「それでは、しつれいいたします。」

「あら。すこしお待ちになったら? お茶でもめしあがれ。」マダムは夕刊を畳んで僕のほうへのべてよこした。

僕は縁側に腰をおろした。庭の紅梅の粒々の蕾は、ふくらんでいた。

「木下を信用しないほうがよござんすよ。」

だしぬけに耳のそばでそう囁かれて、ぎょっとした。マダムは僕にお茶をすすめた。

「なぜですか?」僕はまじめであった。

「だめなんですの。」片方の眉をきゅっとあげて小さい溜息を吐いたのである。

僕は危く失笑しかけた。青扇が日頃、へんな自矜の怠惰にふけっているのを真似て、この女も、なにかしら特異な才能のある夫にかしずくことの苦労をそれとなく誇っているのにちがいないと思ったのである。爽快な嘘を吐くものかなと僕は内心おかしかった。けれどこれしきの嘘には僕も負けてはいないのである。

「出鱈目は、天才の特質のひとつだと言われていますけれど。その瞬間瞬間の真実だけを言うのです。