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かれはむかしのかれならず

彼は昔の彼ならず

太宰 治

「世紀」1934(昭和9)年10月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 28,274 字 · 57 页

青空文庫

いまの男に貸したのは、昨年の三月である。裏庭の霧島躑躅がようやく若芽を出しかけていた頃であった。そのまえには、むかし水泳の選手として有名であった或る銀行員が、その若い細君とふたりきりで住まっていた。銀行員は気の弱弱しげな男で、酒ものまず、煙草ものまず、どうやら女好きであった。それがもとで、よく夫婦喧嘩をするのである。けれども屋賃だけはきちんきちんと納めたのだから、僕はそのひとに就いてあまり悪く言えない。銀行員は、あしかけ三年いて呉れた。名古屋の支店へ左遷されたのである。ことしの年賀状には、百合とかいう女の子の名前とそれから夫婦の名前と三つならべて書かれていた。銀行員のまえには、三十歳くらいのビイル会社の技師に貸していた。母親と妹の三人暮しで、一家そろって無愛想であった。技師は、服装に無頓着な男で、いつも青い菜葉服を着ていて、しかもよい市民であったようである。母親は白い頭髪を短く角刈にして、気品があった。妹は二十歳前後の小柄な痩せた女で、矢絣模様の銘仙を好んで着ていた。あんな家庭を、つつましやかと呼ぶのであろう。ほぼ半年くらい住まって、それから品川のほうへ越していったけれど、その後の消息を知らない。