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かれはむかしのかれならず

彼は昔の彼ならず

太宰 治

「世紀」1934(昭和9)年10月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 28,274 字 · 57 页

青空文庫

「今晩は。おおやさん。」あいそよく応じた。

僕は二三歩だけ彼に近寄って尋ねてみた。

「なにかやっていますか。」

「もう、ほって置いて下さい。そのほかに話すことがないじゃあるまいし。」いつもに似ずきびしくそう答えてから、急に持ちまえの甘ったれた口調にかえるのであった。「私はね、このあいだから手相をやっていますよ。ほら、太陽線が私のてのひらに現われて来ています。ほら。ね、ね。運勢がひらける証拠なのです。」

そう言いながら左手をたかく月光にかざし、自分のてのひらのその太陽線とかいう手筋をほれぼれと眺めたのである。

運勢なんて、ひらけるものか。それきりもう僕は青扇と逢っていない。気が狂おうが、自殺しようが、それはあいつの勝手だと思っている。僕もこの一年間というもの、青扇のためにずいぶんと心の平静をかきまわされて来たようである。僕にしてもわずかな遺産のおかげでどうやら安楽な暮しをしているとはいえ、そんなに余裕があるわけでなし、青扇のことでかなりの不自由に襲われた。しかもいまになってみると、それはなんの面白さもない一層息ぐるしい結果にいたったようである。ふつうの凡夫を、なにかと意味づけて夢にかたどり眺めて暮して来ただけではなかったのか。