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こころのかわ
心の河
宮本 百合子
「改造」1924(大正13)年6月号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 18,442 字 · 37 页
来る気さえあれば来られるのだ」と云うだろう。
「だって駄目よ、私には駄目なのよ」と云っても、さよは、良人に出して示すべきものは、手近かな視覚に訴えることの出来ない、形象のない、自分の生れつきであるのを侘しく、途方にくれて感じたのであった。
入梅前のせいか、よく半透明な白い磨硝子を張りつめたように明るい空から、光った細い雨が、微かな音を青葉に濯いで降った。さよが、椅子の腕木に頬杖をついて眺めると、古風に松の下に置かれた巨い庭石の囲りに、濃茶をかけたような青苔が蒸していた。天から、軽く絶え間なく繰りおろす細い雨脚は、苔の面に触れたかと思うとすっと消える。後から来たのも、すっと消える。いくらでも、いくらでも、青苔は凝っと動かず降る程の六月の昼の雨を吸い込んで行く。――
見守っているうちに、さよの瞳がだんだんうるんで来た。涙が蓮の葉の露のように藤色のセルの胸をころがり落ちた。彼女は、自分達が何のために、何を目当てにその日その日を一つ屋根の下で生きて行くのかと思った。保夫は、外側からだけ見れば、疑いもなく毎朝出掛けて行くべき役所と、判を押す書類と、ふかすべきウェストミンスタを持っていた。