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こころのかわ
心の河
宮本 百合子
「改造」1924(大正13)年6月号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 18,442 字 · 37 页
また、彼が自分ほど食物に注文のないのも解っていた。彼は、近頃の恐ろしく混む電車をわざわざ乗り換えて迄下町に行き、一鑵のオゥトミイルを買う位なら、手近かで間に合う麺麭ばかりで半月辛棒する方が遙かにましだ、と云うだろう。
さよの庭を眺めている眼の奥には、さぞ溌溂とした色彩と活動と、同時に砂塵に満ちているだろう五月の銀座、日本橋辺の光景が、小さくはっきりパノラマのように映った。いつか天気のからりと晴れた日、日本橋の上に立って眺めた川面の漣、両岸に立てこんだ家の見通し、空の軟かな水色などが鮮やかに甦って来た。印象の絵の裡で、村井銀行の横手を軽快な仏蘭西(フランス)風の自動車が駛(はし)り去り、西川布団店の赤い幟が静にはためき、一吹きすがすがしい微風が、東京の大路を貫いて吹き過る。――さよは、薄い着物に日傘を持って、当もなくその中を歩き廻って見たかった。平塚の奥から都会の真中に出かける用事は、どこかで一つオゥトミイルを買うというだけで彼女には充分であった。それだけの用件さえあれば彼女は殆ど半日を活々と、楽しく、東京では目抜きというべき街路の舗道を彷徨(さまよ)えた。