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おんじん

恩人

豊島 与志雄

「帝国文学」1914(大正3)年5月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 13,268 字 · 27 页

青空文庫

葉子が帰って来た時、彼はほっと助かったというような気がした。

「今日お帰りなさるの? まあ!」と云って葉子は眼をみはった。

何にもすることが無かったので、三人は気が進まなかったけれど、葉子がすすめるままにトランプを又はじめた。札を切り乍ら葉子はこんなことを云った。

「口惜しくてお帰りになれないように、叔父さんをたんと負かしてあげるわ。」

西に傾いた日影の移ってゆくのが眼に見えるように早く感じられた。頼り無いような気分が室の中に漲って、三人共、それに浸り乍ら、過ぎ去って行くものの影をじっと見守っているような心地で居た。只葉子ばかりはひたすら骨牌に身を入れた。

叔父は七時の列車を取ることにきめた。晩餐の時に彼は葡萄酒をすすめた。叔父も心地よく二三杯のみ干した。

停車場に皆して出かける時、彼は妻の顔を見守った。彼女は媚びるような眼附をして彼の眼を見返した。それから彼は妙に落ち着かない気持ちで外に出た。叔父が今一度家の方をふり返って見た時、彼は空を仰いで昼から夜に移りゆく蒼空の暮色を眺めた。

新橋には早や多くの旅客が込んでいた。去る者の躁忙しさと送る者の頼り無さと、それから醸される一種の淡い哀愁のみが彼の心を満した。