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おんじん

恩人

豊島 与志雄

「帝国文学」1914(大正3)年5月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 13,268 字 · 27 页

青空文庫

それから客間に入った。妻が叔父を其処に案内したばかりの所であった。

「大分お待ちしていました。」と彼は云った。

「こちらへは九時に着いたんだが、暫く郊外を歩き廻っていたのだから遅くなってすまなかったね。」

彼は叔父の顔を見守った。以前何処かやさしい女らしい所のあった顔が、瞑想的に引きしまっているのを彼は見た。そして何か見馴れない表情のあるのを発見して不思議相に見つめていた。

「なぜそう黙って僕の顔を見ているんだい?」と叔父が云った。

その時彼は初めて短く鼻髭を伸してあるのに気附いた。それで微笑んでこう云った。

「何処か見馴れない所があると思いましたら、髭をお伸しなすったんですね。」

「おやそうでしたのね。私も何だか変だと思っていましたの。」とたえ子が云った。

「ああこれか」と云って叔父は苦笑した。「今気が附いたのか、君達も随分呑気だね。」

叔父は問われるままに京都の種々な話をした。旧御所の中の編笠をかぶってお化粧した掃除女の群や、清水の茶店を守っている八十幾歳の老婆の昔語りや、円山公園の夜桜、それから大原女の話、また嵯峨野の奥の古刹から、進んでは僧庵や尼僧の生活まで。