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あるさっかのやくび

或る作家の厄日

豊島 与志雄

「群像」1949(昭和24)年10月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 10,284 字 · 21 页

青空文庫

然し、今日は、いや今夜こそは、おれの方で、彼女を存分に甘えさしてやろう。身を以て、心を以て、情愛を以て、甘ったれるということがどんなことだか、彼女に思い知らしてやらなければならない。

あとは運命に任せる。生きるか死ぬか、決定的な瞬間が、現出するだろう。

おれの精神は張り切り、耳はとぎ澄されている。だが、何の気配もない。彼女はまだ来ない。あれほど堅い約束を、どうしたのであろうか。

「きっと、きっと、来ますか。」

「ええ。わたしの方から言い出したことですもの。」

「確かですね。」

彼女は頷き、柔かな手をおれに差し出し、おれの眼をじっと見つめて、微笑した。その微笑の中におれは、なにか不吉なものを感じたように、今になって思い出すのだが、ああいう場合の不吉な色は、却って、底に決意を含んでるからではなかったろうか。

彼女は来るだろう。おれは夜通し、明日までも明後日までも、待とう。

電話……近くの家にあるが、電話をかけてみることなどは下らん。煙草はまずい。酒の方がいい。電熱器の湯はすぐにさめるし、燗をするのも面倒だから、ドライ・ジンの口をあけて、ゆっくりと喉に流しこむ。