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あるおんなのしゅき

或る女の手記

豊島 与志雄

「婦人倶楽部」1920(大正9)年12月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 18,447 字 · 37 页

青空文庫

……長い時間がたったような気がした。気が遠くなるような心地がした。そしてふと眼を開くと同時に、私は我に返った。もう彼の姿は感じられなかった。ふり返ると、誰の姿もない野の上に、一面に月の光りが落ちていた。

幻だったのだ! けれども、ああそれがいつまでも単なる幻であってくれたなら!

私は八月の末に、また東京の兄の家に身を置いて、学校に通うこととなった。そして、幻は単なる幻のままでなくなってきたのである。

九月の新学期に初めて学校へ通った日、私は往きも帰りもお寺の前を通ったが、彼の姿は何処にも見えなかった。けれども二三日目から、殆んど毎朝のように、御門の中に立っている彼を見出すようになった。ただ私がいくらか束の間の安堵をしたことには、彼の白い着物が新らしく綺麗になっていたし、顔色なんかも休暇前よりはずっとよく、髪も短く刈り込まれているし、髯はいつもちゃんと剃られていた。頬はやはりこけていたが、すべすべとした艶が見えていた。箒をいつも手にしながら、私の姿を見ると、楓の幹に軽く身を寄せたりして、わざとらしい嬌態をすることがあった。顔では笑わなかったが、眼付で微笑んでいた。