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あるおんなのしゅき

或る女の手記

豊島 与志雄

「婦人倶楽部」1920(大正9)年12月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 18,447 字 · 37 页

青空文庫

そしてただ微笑み合うだけで、重々しい御門の柱の禁札をも、別に怨めしいと思う心は起らなかった。ただ日曜や雨の日は、お坊さんの姿が見られないので、何だかつまらなかった。

所が十二月の初めから、お坊さんの姿がぱったり見えなくなった。私は学校の帰りなどに、わざわざお寺の前を二三度往き来したこともあった。けれどもお坊さんは姿を見せなかった。私は妙に物悲しくなった。そして最後に逢った日のことを、後ではっきり思い出した。

その日お坊さんは、寒そうに両袖を胸に組んで、石牌の横にしょんぼり立っていた。私が御門を通りかかると、首垂れていた顔を一寸挙げたきり、いつものように微笑みもしないで、またすぐに顔を胸に伏せてしまった。じっと眼をつぶってるようだった。後で考えると、それは涙を落さないためだったようにも思われる。けれどその時私は、何となく変だと思ったきりで、別に驚きもしなかった。

お坊さんの姿が見えなくなってから、後でその事を思い浮べてみると、其処には何か深い訳があるような気がしてきた。或は病気ではないかしら……或は何処か他の寺へでも移られるのではないかしら……或は遠い旅へでも行かれるのではないかしら……考えれば考えるほど、もうお坊さんに逢えないということだけが、はっきり事実として残るのであった。