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あるおとこのしゅき

或る男の手記

豊島 与志雄

「中央公論」1924(大正13)年1月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 43,279 字 · 86 页

青空文庫

それから、後で松本から聞いた所に依ると、光子が泊った室はそれほどむさ苦しいものではなかったそうだし、また、光子は自分の過去を話すのを厭いながらも、松本の過去をしきりに聞きたがったそうである。……だが、こんな細かな詮索はぬきにして、彼女の話全体は、初めの不吉な予感に反して、淋しいようでまた伸々とした自由さを私の心に伝えた。うち晴れた秋の空を見るような感じだった。それは恐らく、何処かの狭苦しい室の中ではなく、ああいう場所で聞かされたせいかも知れない。そして不吉な予感は、ずっと先の方に対してのものだった。

光子は何かに立腹でもしたように、とっとと歩いてゆく。私はその後から、余裕のある心持でついて行きながら、わざとこんな風に尋ねかけてみた。

「あなたは一体松本君を愛してるのですか、どうなんです?」

「あんな人のこと何とも思ってやしませんわ。」と彼女は振向きもしないで答えた。

「じゃ河野さんは?」

「考えるのも厭ですわ。」

「それではどうしようって云うんです?」

「分りませんわ。」

「そりゃ誰にだって分らないでしょうけれど……でも何だか変ですね。」

此度は彼女も本当に腹を立てたらしかった。