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あるおとこのしゅき

或る男の手記

豊島 与志雄

「中央公論」1924(大正13)年1月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 43,279 字 · 86 页

青空文庫

彼女はぎくりとしたように顔を挙げて、黒目が三分の一ばかり上眼瞼に隠れてる眼付を私の顔に見据えていたが、そのまま瞬きもしないで、はらりと涙をこぼした。私は残忍な気持になって、それに乗じていった。

「あなたはやはり心から松本君を愛してるんですね。」

「嘘、嘘、」と彼女は叫んだ、「誰も愛してなんかいません、誰も。」

「じゃあなぜそんなに……絶望してるんです?」

彼女は病的な表情をした。そして暫く黙った後に言った。

「やっぱり私一人だけだわ。」

「何が?」

「いろんなことを考えたってやっぱり……私一人だけだわ。」

「だから考えない方がいいんです。」

「それでも私……。」

「欝憤を晴らすのなら、めちゃくちゃに歩き廻るのが一番いいですよ。」

「先生だって……。」

「だから池のまわりを七回まわったんです。」

「七回なんてまわりやしませんわ。」

「然し……一体どうしたらいいんです?」

そして私は不意に顔が赤くなった。やたらに煙草を吹かした。彼女も黙っていた。虫の声がいやに耳につくような静けさだった。長い間たってから、私は不意に彼女の手を握りながら小声で云った。

「泊る?……帰る?」

「泊るわ。