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あるおとこのしゅき

或る男の手記

豊島 与志雄

「中央公論」1924(大正13)年1月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 43,279 字 · 86 页

青空文庫

私は学校を出ると間もなく結婚して家庭を持った。勿論恋愛結婚やなんかではなく、私の例の煮えきらない態度のために、いつしか媒妁人のために引きずり込まれてしまったのである。然し妻の俊子は善良な女だった。私によく仕え家庭をよく整えてくれた。そして三人の子供を設けた。家族が増すにつれて私の収入だけでは生活困難だったけれど、一番上の子が病気で入院した時をきっかけに、金のいる時にいつも妻が河野さんから借りてくる習慣になってしまった。河野さんは昔妻の父から恩義に預ったことがあるとかで、心よく私達の世話をしてくれた。向うでは何でもないことだったろうけれど、実業界に羽振のいい河野さんがついていてくれることは、私達にとっては非常に力強く、自然とその庇護に安んずるような惰性がついた。そして表面上、私達はまあ幸福な生活をしていたのである。所がその安穏幸福というやつがいけなかった。私達の生活にはいつしか、張りがなくなり、力がなくなっていた。私は元来文学が好きで、法科をやりながらも文芸書ばかり読み耽った。卒業後もずっと、会社員になり済そうか、それとも文学で身を立てようかと、それを迷い続けてきた。