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あるおとこのしゅき

或る男の手記

豊島 与志雄

「中央公論」1924(大正13)年1月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 43,279 字 · 86 页

青空文庫

もっともっと落着いて……そう思って云い直そうとしたが、もう遅かった。彼女はまるで死人のような顔色になった。顔色ばかりではなく、眼も頬も口も冷たくこちこちになってしまった。

「浅間しいとも何とも、あなたは!」

「いや僕はただ……。」

「聞きたくありません!」ぷつりと云い切ってから、暫くすると、こんどはひどく激昂してきた。「あなたは自分がそうだから私までもそんな女だと思っていらっしゃるのですか。あなたがそのつもりなら、私だってそうなってみせます。それこそ油断をして、性慾を軽茂して、世の中を甘く見て、河野さんを立派に誘惑してみせますわ。それがあなたのお望みなんでしょう。あなたは自分が疚しいものだから、私にもけちをつけたいんでしょう。」

「お前はそんなめちゃなことを云って、自分で恥しくないのか。」

「あなたこそめちゃなことを仰言るんです。」

会話はそんな風に実際めちゃになっていった。何もかもごったになってはてしがつかなかった。それを一々書くのは無駄でもあるし、また書ききれるものでもない。私達は口早に云い争ったり、長々と説明したり、可なりの間黙り込んだりして、夜中の三時過ぎまで起きていたのである。