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あるおとこのしゅき

或る男の手記

豊島 与志雄

「中央公論」1924(大正13)年1月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 43,279 字 · 86 页

青空文庫

私は何が何やら見分けのつかない気持になっていたのだから。

所で、その晩、私は俊子と三時まで諍い続けて、三時が打つと、その音がまた不思議にはっきり聞えたのであるが、私達は急に黙り込んでしまった。そして長い間黙ってた後に、「もう私は寝ます。」と彼女は云いすてて、不意に立上った。その様子が異様だったので、私は喫驚して、心を静めてくれとまた哀願した。

「二三日考えてみます。」と彼女は云った。

それでも、私は安心しかねて、彼女の後に引きずられるようについていって、寝室へはいり、彼女が寝てしまうのを見定めて、自分もやはり布団にもぐり込んだ。それから夜が明けるまでのうちに幾度か、夢現のうちにふっと不安な気に駆られて、頭をもたげながら彼女の方を眺めやった。

それは何とも云えない怪しい気持だった。昼間になってもそれが続いた。一瞬間でも眼を離したらどういうことになるか分らない、という恐れもあれば、眼を離したらもう永久に彼女を失ってしまう、という恐れもあったが、また一方には、どうなったって構うものか、彼女を失ったって平気だ、と思う心が却って不安の念をそそって、彼女の側を離れ難かったのである。