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あるあきのむらさきしきぶ

或る秋の紫式部

岡本 かの子

「むらさき」1935(昭和10)年11月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 5,007 字 · 11 页

青空文庫

今の世の中の人はみんな蝶々、さっきの妙な若い男も、お隣の聖も、未亡人のわたしも誰でも色香にひかれる気持ちは一つなのだよ」

老侍女「そう致しますと、わたくしは、これから奥様のお取締りに油断は出来ませんでございますねえ」

式部「ほ、ほ、ほ、ほ、それは大丈夫。わたしのあこがれは皆、この鎧を通して矢を射交わすのだからね。(筆と紙を指先でつまんでみせて)滅多に傷は受けないんだよ」

老侍女「つまり、お気持は全部、筆にこめて紙の上だけに射るのだからとおっしゃるのでございますか」

式部「ほ、ほ、ほ、ほ、そこがつまり虫のせいだろうか」

老侍女「でも、おかしゅうございますねえ、そんなに此の世の美しさに牽き付けられなさるあなた様が、始終、阿弥陀さまを拝んでいらっしゃいますとは」

式部(合掌して独言のように)「迎えの雲、この世の岸、たゆたう渚に、あわれにも懐しきわたしの浄土があるのだ。人の世の果敢無さ、久遠の涅槃、その架け橋に、わたしは奇しくも憩い度い……さあ、もう何も言わないでね。だいぶ暗くなったから、燈でもつけて、それからお斎でもお隣の聖におあげなさい」

老侍女「はい」(老侍女は何の事とも判らず阿弥陀仏に一礼し燈台を式部の机に備え、それから斎を用意し隣へ持って行く。