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りゃくだつせられたるおとこ

掠奪せられたる男

豊島 与志雄

「新潮 第二十九卷第三號」新潮社、1918(大正7)年9月1日

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 23,398 字 · 48 页

青空文庫

そして彼の思想や趣味と称すべきものは、既にその痛手を受くる前にみな秀子に蚕食せられ強奪せられてしまっていた。彼のうちにはもはや何物も残っていなかった。ただ痛手を蒙った獣性のみであった。彼はむやみと彷徨した。そしてまた、自己の牢獄に帰るようにして秀子の許に帰っていった。秀子はもう、門口や二階の縁側に彼を待ち伏せる必要はなかった。

ただ不思議なことには、山田は一度も秀子の家で伊藤に逢わなかった。然し彼はもうその危険を念頭に置いてもいなかった。が……。

或日、彼はいつものようにその「彷徨」から秀子の家の方へ走りつつあった。その時、電柱の影から不意に彼を呼び止める者があった。ふり向くと、その男は云った。

「君はたしか山田達二君でしたね。」

山田は何とも答えないで、その男を見返した。四十位の、塩瀬の単衣と縦呂の羽織とを重ねて、白足袋をはいていた。小さな眼と鼻と口とをかこんだ四角な痩せた顔の輪廓、額のあたりに何処か神経質な皺、……と山田ははっとした。それは伊藤であった。

一瞬間、互の凝視が続いた。そして山田は、挑戦的な身構えをして緊とステッキの頭を握りしめた。