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はせくらじけん

支倉事件

甲賀 三郎

「読売新聞」1927(昭和2)年1月15日~6月26日

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 204,697 字 · 406 页

青空文庫

停留場の附近で、先頭に立った石子刑事の手が彼の腕に触れた。道行く人が何事ぞと驚いているうちに、後から駆けて来た四、五人の刑事がバラ/\と彼に折重なって捕縄は忽ちかけられた。

かくて怪人支倉は逃走後一ヵ月有余、三月の空蒼く晴れ渡った朝、深川八幡社頭で哀れにも神楽坂署員に依って捕縛せられたのだった。聖書窃盗の嫌疑を受けて逃亡した彼は、こゝに他日恐ろしい罪名の許に鉄窓に十年の長きに亘って坤吟する呪わしい贖罪の第一歩を踏み出したのだった。

縛についた時の彼の服装は茶の中折に縞の綿入の着流し、その上に前に述べた通り黒っぽい二重廻しを着て足駄を穿いていた。が、彼の懐中には現金八十余円入の財布の外に、新しい麻裏の草履が一足に、弁慶縞の鳥打帽子が一つ、毒薬硫酸ストリキニーネの小瓶が潜められていた。麻裏草履と鳥打帽子は云うまでもなく、すわと云う時に逃げ出す為で、毒薬は最後の処決の為であろう。之を見ても彼の用意と覚悟が覗われる。

私は今まで長々と支倉喜平が逃亡から受縛に至るまでの経路を述べた。その如何に波瀾重畳を極めたるかは読者諸君に、私の拙い筆を以てしてもよくお分りの事と思う。