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うつりが

日本の文学 8 田山花袋 岩野泡鳴 近松秋江

近松 秋江

近松秋江『日本の文学 8 田山花袋 岩野泡鳴 近松秋江』。同一底本的分册已合并为一书。收入:うつり香、黒髪、狂乱、霜凍る宵。

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 152,306 字 · 300 页

青空文庫

「もしもし、あんたはん違えんようにおしやす」

いくらか嗄れたような女の地声で繰り返していう。私はいきなり電話口へ自分の口をぴたりと押し付けたいほどの気になって、

「戯談を。そちらこそ違えちゃいけないよ。私はねえ、京都の地にいる人と違うんだよ。ゆうべ夜汽車で、わざわざ百何十里の道をやって来たのだよ。気の長い人だから、時間が当てにならない。待たしたら怒るよ」そういうと、電話口で、ほほと笑う声だけして、電話は切れた。

やがてもとの座敷に戻ってくると、女中はくたくた煮える鍋の傍に付いていたが、

「来やはりしまへんのどすか」と訊く。

「ここへは来ないようだ」

そういって、私はそこそこに御飯にしてしまった。南に向いた窓から河原の方に眼を放すと、短い冬の日はその時もう頭の真うえから少し西に傾いて、暖かい日の光は、そう思うて見るせいか四条の大橋の彼方に並ぶ向う岸の家つづきや八坂の塔の見える東山あたりには、もう春めいた陽炎が立っているかのようである。私は約束の時間をちがえぬように急いでそこを出ていった。京都の冬の日の閑寂さといったらない。私はめずらしく、少しの酒にやや陶然となっていたので、そこから出るとすぐ居合わす俥に乗って、川を東に渡り建仁寺の笹藪の蔭の土塀について裏門のところを曲って、だんだん上りの道を東山の方に挽かれていっ