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ばんか

晩夏

堀 辰雄

「婦人公論」1940(昭和15)年9月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 13,249 字 · 27 页

青空文庫

が、さて、こうやって待ち構えたような気分でいると、別に好い事なんぞは何処からも涌いて来そうもない。第一、けさは朝霧が下りていると云うのでもなしに、変にうす曇っていて、空も湖水も一めんに鈍色だ。妙高にも、黒姫にも雲が無くて、輪廓だけがぼおっとぼやけて見えている。なんだかこのままこうして一日中曇ってしまいそうな、そんな心細い曇り方だ。

曇ったら曇ったで、余所へいってもしようがあるまいから、晴れるまで此処に頑張って、静に本でも読んで暮らすのも好い。それが一番おれらしい。何、この本を読みにわざわざこの湖畔まで出掛けて来たとおもったって好いわけだ。

私はそう腹を据えると、妻はそのままゆっくり寝かせておく事にして、ヴェランダの籐椅子に靠れながら、曇り空の下で、例の小さな横文字の本を開いた。それはドロステ・ヒュルスホオフという独逸の閨秀作家の書いた「猶太びとの」という物語だった。南独逸の木深い谷を背景にして、酔払いの夫が或る吹雪の晩に森のなかで横死してからの、その寡婦と息子との荒んでゆく運命を、女にも似げない、強靭な筆で書いたものだった。丁度、私はその息子のフリイドリッヒが彼を養子にした叔父のシモンの悪い感化の下で次第に村のならず者になってゆく宿命的な経路を描いた物語の半ばを読みかけていた。