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ばんか

晩夏

堀 辰雄

「婦人公論」1940(昭和15)年9月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 13,249 字 · 27 页

青空文庫

そのうち二人で本でも読み出したらしい。なんの本だか、薔薇色の娘の方が低い声でそれを音読している。ポロシャツの娘はそれを聞きながら、ときどき他愛ない笑い声を立てる。

「おい」と私は丁度ヴェランダに出て来た妻をかえり見た。「ちょっと向う岸に渡って見たいなあ。下の貸ボオト屋へ訊いたら、なんとかして呉れないかしらなあ。」

「往って見ましょうか?」

妻は本を読むおつき合いをさせられるよりかその方が賛成だった。私達はホテルを出ていった。前の急な坂を下りかかると、その途中で、一人の、空の畚を背負い、息苦しそうにすっかり胸をはだけた、よぼよぼのおじいさんとすれちがいざま、何か問いかけられた。少くともそんな気がして、二人で一緒にふりむくと、そのおじいさんは何やら喘ぎ喘ぎ私達に向って物を言っているのだが、それがなかなか聞きとれなかった。なんでも私達がいま道で、馬を曳いて往った自分の娵に往き遭ったろうが、どの位先きへ往ったかを知りたいらしい事が漸く分った。私達はすぐ上のホテルから飛び出してきたので、そんなものは見かけなかったから、知らないと云うと、なんだか怪訝そうな顔をして、いつまでも私達を見つめていた。